宿題代行が“おかしくない”時代が来る

こんにちは。宿題専門の家庭教師・宿題代行「家庭教師のココア」代表の高野祐大です。

新しく生まれてきたばかりのサービスはいつでも「おかしい」

世の中にないサービスが生まれると世の中からは「おかしい」だとか「怖い」といった声が聞かれるものです。それは何故なのでしょうか。

何故だかは説明ができないけれど、なんとなく「新しいものに対してのアレルギー」が世の中に存在していることは、この記事を読んでいる皆さんからすれば、肌感覚として認識できている方が多いのではないでしょうか。

「宿題代行」に関しても、探せばもともとあったサービスなのかも知れません。といいますのも、もとはと言えば、膨大な量を課される夏休みの宿題を期限の直前まで全く手を付けずにいた我が子になんとか宿題を完遂してもらう(完遂していると周りから思われる)べく、親御さんやご兄弟などの家族が、手伝うという行為は、いわゆる宿題代行サービスがよく耳にする昨今より遥か以前からあったものであることは、容易に想像できるかと思います。 昨今ワイドショーなどで注目を浴び始めた「宿題代行」ですが、それもGoogleの検索数をみてみると、トレンドとしては2018年前後からの話のようです。このあたりから、文部科学省が「宿題代行への対応について」発表したり、メルカリ等の大手のサービスで宿題代行の出品が禁止されたり、世間でも良い意味でも悪い意味でも注目されるサービスになって、世の中の人に「認知される」サービスになってきたのです。

●「宿題代行」への対応について(文部科学省)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/syukudai/index.htm

文部科学省が宿題代行への対応を発表し、メルカリ等のサービスで宿題代行の出品を禁止したのは、ワイドショーなどの世論を受けてのものでしょう。というのも、宿題代行のサービスが認知されるたり、利用されたりすることによって、文部科学省や宿題を課している小学校や中学・高校・大学等が直接的に何か困ることはないからです。 文部科学省を始めとする公的機関が直接的に困ることがないのに、こうした宿題代行について素早く対応したのは、紛れもなく「世論」を受けてのことなのです。

世論は「宿題代行」をおかしい、怖いと思った

つまり、世論としては、突如登場してきた「宿題代行」なるサービスについて、今までの常識では解釈ができない「おかしいもの」、得体の知れない「怖いもの」と判断されたことの証左とも言えます。

しかしながら、直接困る人が居ないサービスであり、かつ古くからは家族間や友達間で広く行われてきたサービスであることは、容易に想像がつくものであると思います。 家族間であれば、まだしも、友人間で無償で「宿題代行」が行われてきたのだとすれば、「宿題の友人間におけるお手伝い」といわゆる「金銭による宿題代行サービス」との違いは、対価が支払われているか否か、この一点に尽きるのではないでしょうか。 その点でいえば、友人間の宿題代行があったとすれば、人間関係におけるいわゆる「貸し」や「借り」といったもので、その友人との今後の人間関係において、有利に働かせる意図があるはずです。そう考えると、その友人間の金銭が発生していない宿題代行・宿題のお手伝いというものも、金銭以外の利害関係があることで、友人間の宿題代行というものが成立している部分も否定できないのできません。その点で考えますと、宿題代行はむしろ金銭が発生しているか否かのみが違いとして存在する、古くから存在するサービスが、情報化社会によって顕在化してきただけとも言えます。

そうした、もともと家族間で「こっそり」行われてきた「宿題代行」が、なぜ「おかしい」と言われてしまうのでしょうか。 宿題代行というものが、高度に可視化される情報化社会によって、見えるようになっただけなのに、「宿題代行」というものに対して、「おかしい」と考える人は多くいます。それは日本人特有の「臭いものに蓋をする」という考えに原因があるとも言えます。 家族間で行われていた「宿題代行」であれば、なかなか宿題を代行してもらった事実について、家族以外の人、学校の先生などに、わざわざ口外する必要があるものではありません。 といいますのも、宿題代行が憚られるものであることを否定はしません。といいますのも、宿題が必要なのかどうかはさておき、宿題の理想論、建前としては「自分のやってくる」ことを想定している性質のものであるからです。 その点でいいますと、家族間の金銭が発生しない「宿題代行」であれ、近年の金銭が発生する「宿題代行」であっても、どちらにせよ、通常「自分の力でやってくる」ことが想定されるものが「宿題」の建前であるから、家族間であればわざわざ口外して、他社から自分の家族への評価を下げるようなことをするメリットも、その必要も、全くないからです。

「宿題代行」の存在が認められた時点で蓋をされてしまうが、元からあったもの

つまり、元からあったものが可視化されたものが「宿題代行」であって、その存在が認められた時点が蓋をする国民性が昨今の「宿題代行」への世間の反応ということは理解ができたと思います。 つまり、こうした前提を理解しますと、「宿題代行はおかしい」であったり「宿題代行は得体の知れない怖いもの」といった声を額面通りに受け取ってしまい、時間が惜しい、そうした時間をもっと自分の夢の実現に使いたい、という人が、そうしたサービスを利用しないのは、本当に損になってしまう、世間に騙されてしまい、自分の進むべき道を間違えてしまう、という可能性が出てきてしまいます。あのときのあの時間を自分の夢の実現に使っておけば良かった、と後悔しても遅いです。

世間の「宿題代行の利用するのはおかしい」であったり、「宿題代行は得体の知れないもので怪しい」といった意見、大人のアドバイスを額面通りに受け取ってしまい、その世間に「騙された」と嘆いたとしても、その「世間」は責任を取ってはくれません。自分の進むべき道を決められる、信じられるのは自分ただ一人なのです。

途中から“市民権”を得た“おかしい”ものもいっぱい

例えば、いまでこそ「AO入試(現・総合型選抜)」は、批判的な声もあるにせよ、もともと宿題代行と同じく「AO入試はおかしい」であったり、「AO入試は得体の知れない怖いもの」といったものでしたが、ここ数年でそのような声は聞かれなくなり、AO入試はそれなりの市民権を得たものといえます。 このAO入試がまさに、だんだんと、ペーパーテストで人の能力は測れないよね、といった薄々感じていた本質的な世間の考えが、だんだんと表に出てきて、初めのうちは「臭いものには蓋をしよう」精神で、「AO入試はペーパーテスじゃないから「悪」「邪道」といった声がよく聞こえておりましたが、結果的には「ペーパーテストで人の能力は測れない」という本質的なものに収束していこうとしているのは感じると思います。

●「非認知能力」は学校でのペーパーテストでは測れない能力
https://lp.edvpath.jp/column/3/

本質的には「宿題」がおかしい?

先程のAO入試の例でいえば、「ペーパーテスト」が「おかしい」として、当初の考え方と逆転してきた、本質的な部分を世間の人々が見るようになってきた、という事例を紹介いたしました。 AO入試に関しては、1990年の登場から30年ほど経った近年、文部科学省の教育制度改革も相まって、国公立大学でも導入が進むなど、本質的なことに着目され、市民権を得てきました。

「宿題代行」に関しても、金銭を介した「宿題代行サービス」が2015年に登場したとして、30年後には「宿題なんかいらない」といった声が大きくなって、市民権を得ている可能性も否定できません。

宿題をやっている方が「おかしい」という時代が来ないことが「おかしい」となるのかも知れません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です